これまで「日本三大怨霊」とされる菅原道真、平将門を特集してきました。
残るひとりは崇徳天皇(すとくてんのう)。
崇徳天皇もまた、非常に強い怨念を持った人物として人々から恐れられ崇められています。
崇徳天皇はなぜ怨霊となった?
※称号はすべて「天皇」で表記しています。
父・鳥羽天皇から嫌われていた崇徳天皇
崇徳天皇は幼い頃から父・鳥羽天皇に、
”自分の子どもではないのではないか、(崇徳天皇から見て祖父に当たる)白河天皇の子ではないのか”
と疑いをかけられます。
崇徳天皇は5歳で即位となりますが、白河天皇からの圧力があったための譲位であり、鳥羽天皇は不本意だったのでしょう。
白河天皇が亡くなった後、鳥羽天皇は院政をふるい、近衛天皇への譲位を迫ります。
崇徳天皇が怨霊となった理由は父・鳥羽天皇から受けた無下な扱いが根底にあると言われているぞ
跡継ぎ争い・保元の乱にて敗れる
近衛天皇が17歳で亡くなったあと、崇徳天皇は息子に譲位を希望しましたが認められず、弟の後白河天皇が即位。
これに不満を持った崇徳天皇でしたが、その後も父の鳥羽天皇が病気に臥した際も見舞いは拒絶され、初七日にも臨幸できずますます対立が深まります。
崇徳天皇は1156年、藤原野頼長らと共謀して後白河天皇を襲います(保元の乱)。
結果、崇徳天皇は敗北し讃岐へ罪流となります。
崇徳天皇は囚人のように扱われ讃岐まで護送されたと言われています。

歌川国芳画
流された讃岐で仏教を学ぶ
讃岐の地で崇徳天皇は仏教を学び、過去の自分の行いを反省し犠牲者の供養のために五部大乗経の写経を書き上げます。
その写経を京のお寺に納めてほしい、と朝廷に送りますが後白河天皇に「崇徳天皇の呪いが込められている」とされ送り返されます。
これに激怒した崇徳天皇は自らの舌を嚙み切った血でその写経に、
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」
と書き込み復讐を誓います。
五部大乗経とは・・
大乗の教法を説いたものとして天台大師が選んだ、華厳(けごん)、大集(だいじゅう)、般若(はんにゃ)、法華(ほけ)、涅槃(ねはん)の五部の経典のこと。
崇徳天皇死後起こる天変地異
配流から8年後、崇徳天皇は讃岐の地で生涯を終えます。
崇徳天皇の死後、後白河天皇の周りで不幸が相次ぎます。
後白河天皇の第一皇子の二条天皇とその妻、女御、孫の六条天皇などが立て続けに亡くなったのです。
そればかりでなく、京都の3分の1を焼き尽くした安元の大火、その翌年には治承の大火、飢饉や反乱などが相次いで起こります。
これらの災いを人々は崇徳天皇の祟りとし崇徳院廟をつくって神霊として祀りますが、それでも崇徳天皇の怨霊は鎮まることはありませんでした。

崇徳上皇が讃岐で崩御し、怨霊になる瞬間を描いた一場面・
歌川芳艶画
死後700年で建てられた白峯神宮
その後も100年ごとの式年祭の前後には国家的な動乱が起こります。
1868年、明治天皇は父・孝明天皇の遺志をつぎ、崇徳天皇の祀られている讃岐の白峯陵を京都へ移し白峯宮を造ります。
これは実に崇徳天皇の死後700年でのこと。
長きにわたり崇徳天皇による強い怨念と祟りが信じられている、ということでしょう。
白峯宮はのちに宣下を受け白峯神宮とされました。
白峯神宮は蹴鞠の宗家である飛鳥井家の屋敷跡に建っているため、球技全般・サッカー関係の多くの参拝者が訪れる地となっています。

全国24社しかない神宮のひとつ
崇徳天皇は歌人としても知られる

白峯神宮には崇徳天皇が詠んだ歌碑があります。
「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思う」
この歌の意味はWikipediaさんによるとこんな感じです。
滝の水は岩にぶつかるとふたつに割れるが、すぐにまた一つになるので、現世では障害があって結ばれなかった恋人たちも来世では結ばれましょう
怨霊として恐れられ悲劇の天皇としても有名な崇徳天皇ですが、実は文才にも長けており、美しいものを好む繊細で優しい一面があったと言われています。
縁切り・縁結びで有名な安井金比羅宮
崇徳天皇を祀る場所は白峯神宮以外にもいくつか存在しますが、その中でも「安井金毘羅宮」は縁切りの神社としてとても有名です。
断ちたい人間関係はもちろん、ギャンブルやお酒などの依存、病気との決別などにも効果があるとされ、訪れる人が後を絶たない京都の人気スポットです。
そしてその効果は絶大と評判。
悪い縁なら切ってくれ、いい縁は結んでくれるという縁結びのご利益もあります。

この安井金比羅宮の縁切りのパワーはすさまじいものがあるとされ、善いとされない願であれば自分にはね返ってくることがある、とも言われます。
崇徳天皇は訪れた人たちの行いや思いを見通しているのかもしれませんね。
